匿名希望のおでんFortranツヴァイさん太郎

生き物、Fortran、川について書く

読書感想文 : 読書と社会科学

本稿は以下の書籍の感想をまとめたものです。

  • 内田義彦 (1985) 読書と社会科学. 岩波新書. pp213.

本書は社会科学を学ぶ方法としての読書を論じた本です。 著者は情報としての読みと古典としての読みを区別します。 情報としての読みとは、文字通り情報として受け取るだけの読みです。 古典としての読みとは、情報の受け取り方を変え、ものの考え方を変えるような読みです。 本書では古典としての読みを重視します。

古典としての読みは、文字通り古典を対象とします。 古典とは、一読明快を目指して書かれたにも関わらず、一読明快からはみ出す内容を含むものです。 丁寧に読みこむほど、読まれた内容が個性的になります。 一般に古典と呼ばれていない本も「私にとっての古典」になりえます。

古典としての読みの目的は概念装置を獲得することです。 概念装置の獲得には、装置を一から開発するのと全く同じ種類の自主性と労苦が必要です。 これを指して著者は自前の概念装置という表現を用います。

一般に、本には学説構成に必要な全ての概念装置が登場しません。 個々の概念装置の基礎になる概念装置が本の中に登場しないことが多いのです。 この基礎の概念装置を著者は大枠の概念装置と呼びます。 大枠の概念装置を持っていない状態とは、本で構成される学説の基礎が わからない状態ですから、本の内容を理解できません。 また、時代や状況が違う中で生まれた概念装置は、 そのまま現代に役立つとは限らないことに注意が必要です。 従って、概念装置を作る営みそのものを読書を通じて吸収する必要があります。

古典としての読みは、本を仮説的に信じることから始まります。 二種類の信があります。 著者が間違えるわけがないという信と、自分の読みが正しいという信です。 二つの信に基づいて読む内に、書かれた内容に対する明確な疑問が生じます。 その疑問を解くための探索によって、対象の本に対する理解を深めます。

以上が古典としての読みのまとめです。

自前の概念装置は非常に府に落ちる表現です。

数学の学習も自前の概念装置の獲得の過程だと私は考えます。 その定理を成立させる条件や定理の証明を追うだけでは、 定理を理解できないことがしばしばあります。 自分で例や反例を作ったり、一から自分で理論を構成することで、 どのような概念が必要なのか理解できるようになります。 定理を成立させるために何を定義しなければならないかがわかってきます。 自分にとって自然な文脈で理論を構成できるようになると、 諸概念が非常に当たり前のように感じられます。

このように考えると、自前の概念装置とは実体験に引き寄せた解釈のこととも言えます。 私の場合、河川の散策、遊び、調査の経験が、文献の理解や解釈に 役立ったことが幾度となくあります。 経験がなかったころは、文献から得た知識があっても、 実河川で起こっていることに対して仮説を立てることができませんでした。

著者は次のように言います。

ウェーバーについて詳しく知ったって、ウェーバーのように考える考え方、 なるほどさすがにウェーバーを長年読んできた人だけあってよく見えるものだなあ、 ウェーバー学も悪くないと思わせる見方を身につけなければ仕方がない。(p3)

 

新奇な情報は得られなくても、古くから知っていたはずのことがにわかに新鮮な風景 として身を囲み、せまってくる、というような「読み」があるわけです。(p13)

 

本を読むことは大事ですが、自分を捨ててよりかかるべき結論を求めて本を読んじゃ いけない。本を読むことで、認識の手段としての概念装置を獲得する。 これがかなめです。(p157)

どのような態度で本に挑み、何を学ぶべきか、それを本書は考えさせてくれます。 読書を通じた学問について考える時は、本書を古典として読むことをおすすめします。